「稟議用の資料にすぎない」は通るか――遮熱塗料メーカー 日本中央研究所の特許・商標を含む営業資産の譲渡契約をめぐる東京地裁 令和6年1月18日判決

「稟議用の資料にすぎない」は通るか――遮熱塗料メーカー 日本中央研究所の特許・商標を含む営業資産の譲渡契約をめぐる東京地裁 令和6年1月18日判決

M&Aの交渉では、意向表明書、譲渡契約書、関係者全員の合意書など、多くの書面が短い期間に作られます。そのうちの一通に押印した後で、あれは相手の社内手続のための資料で正式な契約書ではなかった、と主張できるのでしょうか。遮熱塗料メーカーの日本中央研究所株式会社が、特許・商標を含む営業資産の全部を譲る契約書に押印しながら、後に契約の成立を否定した事件で、東京地方裁判所は令和6年1月18日、この点について判断を示しました。この記事では、判決文をもとに、何が起きたか、何が争われたか、事業譲渡で確かめることを整理します。

この事件は、事業譲渡のトラブル・判例62件の分析の類型1「屋号・商標・ブランドが移らない、取り合いになる」の事例です。

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<a href="https://jfsc.jp/research/ma-hanrei/shanetsu-toryo-tokkyo-shohyo/">「稟議用の資料にすぎない」は通るか――遮熱塗料メーカー 日本中央研究所の特許・商標を含む営業資産の譲渡契約をめぐる東京地裁 令和6年1月18日判決|株式会社日本財務戦略センター</a>文章での出典表記:株式会社日本財務戦略センター「「稟議用の資料にすぎない」は通るか――遮熱塗料メーカー 日本中央研究所の特許・商標を含む営業資産の譲渡契約をめぐる東京地裁 令和6年1月18日判決」(2026年10月12日) https://jfsc.jp/research/ma-hanrei/shanetsu-toryo-tokkyo-shohyo/
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先に結論

事件の概要と時系列

売り手は、遮熱製品の企画・開発・製造・販売などを目的とする日本中央研究所株式会社です。代表者が議決権のある株式の100%を持っています。買い手(原告)は、塗料の製造などを目的とするシンガポール法人で、売り手が製造する遮熱塗料の海外販売を担っていました(国内販売は別の販売会社)。売り手の代表者は、契約当時、買い手の代表者でもありました。商標権は売り手の単独、特許権は売り手と別の会社の共有(持分各2分の1)で、共有者は売り手の持分を買い手に移すことに同意しています。

時期出来事
平成21年7月売り手が遮熱塗料の商標権2件を譲り受け、移転登録
平成27年1月買い手が、売り手から海外の商標権などの通常使用権を受けていたことを前提に、韓国の会社と製造・販売の独占ライセンス契約を締結
令和2年1月新型コロナの影響で販売力が落ちる中、遮熱塗料事業を新しいスポンサーに提供するM&Aを検討し、投資会社の紹介を受ける
令和2年8月26日投資会社の代表者と同じ人が代表を務める会社が、売り手に意向表明書を差し入れる(法的拘束力がない旨の記載あり)
令和2年8月31日「債権債務を省く、有機的な営業資産の全部譲渡契約書」を作成。対価は買い手の売り手への貸付金(34万4949.63米ドル)との相殺
令和2年9月30日売り手・買い手・代表者・国内販売会社などの6者で関係者間合意書。同日、国内販売会社の株式の譲渡契約
令和2年10月28日売り手と国内販売会社の間で募集株式の総数引受契約
令和3年〜令和5年2月売り手の代表者が国内販売会社にコンサルティング報酬などを求めた別の訴訟。訴状で営業全体は買い手に移転していると主張。請求は棄却され、控訴も棄却
令和4年9月売り手が、韓国のライセンス先に買い手との契約は無効だと伝え、別の会社に商標の専用使用権を設定して登録
令和4年12月頃買い手が、専用使用権者から求められて商標の使用を中止
令和5年4月韓国のライセンス先が、買い手との契約を終了すると通知
令和6年1月18日東京地裁が移転登録と2173万3929円の支払を命じる

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関係者間合意書は、売り手が遮熱塗料事業の全部を買い手に譲って集約し、買い手の株式の90%を国内販売会社に現物出資して新株を引き受け、その株式を投資会社に5000万円で譲るなどの取引を定めていました。2条では、売り手が令和2年9月30日までに、特許権・商標権を含む譲渡資産の移転と名義変更に必要な手続の一切を完了させるとしていました。しかし、移転登録はされないままでした。

何が争われたか

  1. 譲渡契約は成立したか(争点1):売り手側は、契約書が自分の意思で作られたことは認めながら、契約の成立を否認しました。事業譲渡の対価について、売り手は1億3400万円、投資会社は5000万円を主張して折り合わず、5000万円を前提とする契約を結ぶはずがない、契約書は投資会社から社内手続を進めるための稟議用資料と説明を受けて署名・押印したもので、「正式な契約書ではないから、本件譲渡契約が締結されたことにはならない」と主張しました。
  2. 専用使用権の設定は不法行為か(争点2):買い手は、契約で売り手は譲った資産を買い手の許可なく自ら行使しないと定めていたのに、別の会社に専用使用権を設定し、商標の使用を中止させられたと主張しました。
  3. ライセンス先への働きかけは不法行為か(争点3):買い手は、売り手が韓国のライセンス先に契約は無効だと伝え、ロイヤリティを受けられなくなったと主張しました。

裁判所の判断

争点1――経緯からみて、契約は成立している

判決は、売り手の代表者が売り手と買い手の両方の代表者として契約書に署名・押印したことについて、M&A交渉と各種文書の作成の経緯からみて、「本件譲渡契約書記載のとおりの内容で本件譲渡契約が締結されたと認めることには十分な合理性がある。」としました。さらに、代表者が別の訴訟で、売り手と買い手の間で契約が締結されたと主張していたことも挙げています。

売り手側は、意向表明書に「本書面は現時点での当社の意向を表明するものであり、何ら法的拘束力を有するものではありません。」と書かれていることを、稟議用資料だった裏付けとして指摘しました。判決は、意向表明書と契約書の日付が近いことを考えても、その記載から契約書が稟議用資料として作られたにすぎないと理解することは必ずしもできないとしました。契約の成立を前提とする関係者間合意書が作られ、その内容をなす他の文書も順次作られた経緯を考えると、「本件譲渡契約書をもって稟議用資料と理解することはできない。」とし、別の訴訟での代表者の主張とも矛盾するとして、売り手側の主張を退けました。

争点2――移転登録の前でも、契約に反する行使は不法行為

判決は、「本件商標権の移転登録手続は未了であるため、被告会社から原告に対する本件商標権の移転の効力は生じていないものの」(商標法35条、特許法98条1項1号)、契約に基づき売り手は買い手の許可なく商標権を自ら行使できないとしました。それなのに専用使用権を設定し、買い手に商標の使用を中止させたことは、「故意により原告の本件譲渡契約に基づく本件商標の使用権を侵害し、その業務を妨害する不法行為といえる。」と判断しました。代表者についても、先に契約を結びながら後に専用使用権を設定したのだから、「その職務を行うについて悪意があったといえる。」として、会社法429条1項の責任を認めました。

損害については、売り手が専用使用権者への2000万円の借入金の返済に代えて専用使用権を設定し、2000万円の利益を得たと認め、買い手は少なくとも1125万円の損害を受けたとしました。

争点3――ライセンス先への働きかけも不法行為

判決は、売り手が韓国のライセンス先に、買い手は商標権者ではなく契約は無効だから売り手と契約を結ぶよう働きかけ、契約を終了させたことも、故意の不法行為だとしました。損害は、ライセンス契約の期間や延長の経過、ライセンス先が商標を使い続ける意向を持っているとみられることなどから、本件では令和4年10月分から令和6年3月分までのロイヤリティ相当額としています。

認められた金額の内訳は次のとおりです。

項目金額
専用使用権の設定による損害1125万円
同上の弁護士費用110万円
ロイヤリティ相当額(令和4年10月〜令和6年3月分)853万3929円
同上の弁護士費用85万円
合計(売り手と代表者の連帯)2173万3929円

遅延損害金は、訴状送達の翌日(令和5年6月13日)から民法所定の年3%です。

この判決から何がいえるか

M&Aの一連の書面のうち一通に押印した後で、それを稟議用の資料だったと主張しても、その後の書面がその契約を前提に作られていれば、通りにくいということです。この事件では、法的拘束力がないと明記されていたのは意向表明書の方で、譲渡契約書にはそうした記載はありませんでした。さらに、売り手の代表者が別の訴訟で契約の締結を主張していたことも、契約の成立を認める理由とされました。

また、商標権の移転は登録しなければ効力が生じず、本件でも移転の効力は生じていないとされました。それでも、契約で売り手は譲った権利を自ら行使しないと定めていたため、売り手が登録上の権利者であることを利用して専用使用権を設定したり、ライセンス先に働きかけたりしたことは不法行為とされ、代表者個人も責任を負いました。

一方で、判決が判断していないこともあります。

ほかの屋号・商標・知的財産をめぐる判決は、事業譲渡のトラブル・判例62件の分析の類型1で整理しています。

事業譲渡で確認すること(この判決から導ける示唆)

以下は判決から導いた確認事項で、裁判所が述べたものではありません。

  1. 書面ごとに拘束力の有無を書く:この事件では、意向表明書には法的拘束力がないと書かれていましたが、譲渡契約書には書かれていませんでした。社内手続のための案文として署名を求められたなら、その書面に「案」「法的拘束力を有しない」などと明記し、押印は正式な契約のときだけにします。
  2. 対価が決まる前に資産の譲渡契約に押印しない:売り手は対価をめぐって折り合っていなかったと主張しましたが、譲渡契約書は対価を貸付金との相殺と定めており、そのとおりに成立したとされました。一連の取引の対価が決まっていないなら、個別の契約書もその後に作ります。
  3. 移転登録を決済の条件にする:関係者間合意書は令和2年9月30日までに名義変更の手続を終えるとしていましたが、登録はされず、売り手が登録上の権利者のまま専用使用権を設定しました。商標権・特許権の移転は登録しなければ効力が生じません(商標法35条、特許法98条1項1号)。登録申請に必要な書類を決済と引き換えに受け取ります。
  4. 共有の特許は共有者の同意を書面で取る:特許権は別の会社との共有で、その会社は持分の移転に同意していました。共有の特許権の持分は、他の共有者の同意がなければ譲渡できません(特許法73条1項)。同意書を契約の前に取り付けます。
  5. 既存のライセンスの根拠を整理する:買い手の韓国のライセンス契約は、売り手から受けていた通常使用権を前提にしていました。権利者が替わる取引では、既存のライセンス先に誰が権利者になるかを通知し、売り手が直接ライセンス先と交渉しないことを契約で定めます。

判決の出典

2026年10月12日に裁判所の公開情報で確認した範囲では、この判決に対する控訴や上級審の判決は確認できていません。個人は判決の伏字か立場で、売り手以外の会社は立場と業種で書いています。

よくある質問

Q. 社内稟議用と言われて押印した契約書は、契約として扱われますか?

この判決では、交渉の経緯と、その契約を前提にした書面が後から作られていたこと、代表者が別の訴訟で契約の締結を主張していたことから、稟議用資料だったという主張は退けられ、契約の成立が認められました。事案ごとの事情によりますが、押印した書面が契約として扱われる可能性を前提に考える必要があります。

Q. 商標の移転登録をしていなければ、買い手は何もできませんか?

判決は、移転登録が済んでいないため商標権の移転の効力は生じていないとしました。一方で、契約に基づいて売り手に移転登録の手続を命じ、売り手が契約に反して権利を行使したことは不法行為として賠償を命じました。

Q. 売り手の代表者個人も責任を負いますか?

この判決では、代表者が先に譲渡契約を結びながら、後に専用使用権の設定やライセンス先への働きかけをしたことについて、職務を行うについて悪意があったとして、会社法429条1項の責任を認め、会社と連帯して支払うよう命じました。

Q. 意向表明書に法的拘束力がないと書けば、その後の契約も拘束力がなくなりますか?

この判決は、意向表明書のその記載から、後の譲渡契約書が稟議用資料にすぎないと理解することは必ずしもできないとしました。拘束力の有無は書面ごとに判断されるため、拘束力を持たせない書面には、その書面自体にそう書く必要があります。

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この記事は、裁判所が公開している判決文(2026-10-12時点)をもとに、判決が認定した事実と判断を整理したものです。判決の評価にあたる言葉は、判決の文言をカギカッコで引用したものに限っています。判決に出てくる個人は、判決自身の伏せた表記か続柄だけで書いています。株式会社日本財務戦略センターが当事者の主張の当否や、現在の会社・商品について評価するものではありません。上級審や確定の有無は、記事中に書いたもの以外は確認できていません。個別の契約や紛争については、弁護士などの専門家にご相談ください。
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五十嵐悠一
監修・執筆責任者
株式会社日本財務戦略センター 代表取締役。京都大学経済学部経営学科(マーケティングゼミ専攻)卒。損害保険ジャパン本店営業部(企業リスク・法務)を経て、東証上場M&A仲介会社にて多数の成約に従事。2020年に株式会社日本財務戦略センターを創業し、M&A・事業承継・財務戦略を専門としています。中小企業庁 M&A支援機関登録事業者/一般社団法人M&A支援機関協会 正会員です。