3行まとめ
- 中小企業庁「2024年版中小企業白書」によれば、M&A実施後に譲渡対象企業の従業員の雇用を全員継続している買い手企業は8割超。売り手経営者がM&A条件として「従業員の雇用維持」を重視する割合も82.7%に達し、譲渡企業の従業員にとっても、買い手企業にとっても、雇用維持はM&A交渉の中核論点になっています。
- 株式譲渡では労働契約は当然に承継され、解雇には労働契約法第16条の客観的合理的理由が別途必要です。事業譲渡では民法第625条第1項により従業員一人ひとりの個別同意が必要で、買い手・売り手が一方的に転籍を命じることはできません。会社分割では「会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律」(平成12年法律第103号、通称・労働契約承継法)が独立に適用され、事前通知と異議申出制度が法定されています。スキームによって従業員の保護法理が大きく異なる点は、譲渡前に必ず押さえるべきポイントです。
- 本記事は、中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」(令和6年8月改訂)、同「中小統合プロセス(PMI)ガイドライン」(令和4年3月)、厚生労働省「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(令和8年5月25日適用版)、労働契約承継法、労働契約法第16条、整理解雇に関する裁判例を一次ソースとし、株式会社 日本財務戦略センター(中小企業庁 M&A 支援機関 登録、一般社団法人 M&A 支援機関協会 正会員)の実務視点で、雇用承継の法的構造、買い手の経済合理性、例外ケースの見極め方、売り手交渉の準備ポイントまでを整理します。
はじめに——「従業員はリストラされるのではないか」という不安の正体
中小企業のオーナー経営者から事業承継・M&Aの相談を受けるとき、ほぼ例外なく出てくる言葉があります。「自分のことはどうでもよいが、従業員の雇用だけは守ってほしい」。長年連れ添った従業員、家族のように苦楽を共にしてきた幹部社員、若手の将来を案じる気持ちは、経営者であれば誰しも抱くものです。
一方で、ニュースで流れる「大型再編で○千人削減」「ファンド買収で人員整理」という見出しは、強い印象を残します。M&Aという言葉そのものが、リストラと結び付いて理解されてしまう背景には、こうした報道の積み重ねがあります。
しかし、中小企業庁が公表する各種データや、株式会社 日本財務戦略センターが関与してきた事業承継・M&Aの実務を踏まえると、中小企業のM&Aで従業員の雇用が大幅に失われるケースは、ごく一部の再生型・事業再編型に限定されるのが実情です。
本記事では、以下の論点を順に整理します。
- 第1章:雇用維持の実態数値と、誤解が生まれる背景
- 第2章:株式譲渡・事業譲渡・会社分割というスキーム別の法的仕組み
- 第3章:買い手が雇用を維持したい本音——シナジーと経済合理性
- 第4章:例外ケース(再生型・事業再編型)の見極め方
- 第5章:売り手が交渉段階で押さえるべき準備ポイント
- 第6章:FAQ(M&A後の雇用維持に関するよくある質問)
なお、本記事は一般的な解説を目的としており、個別案件における労働契約の承継・解雇の有効性・労使協議の進め方といった具体的な法的判断については、弁護士・社会保険労務士・税理士・公認会計士等の専門家にご相談ください(弁護士法第72条・社会保険労務士法第27条遵守の観点)。
1. 【結論先出し】M&A後に従業員が解雇されるケースは少数派——その理由と根拠
1-1. 買い手の8割超が「全員継続雇用」している
中小企業庁が令和6年(2024年)に公表した「2024年版中小企業白書」第2部第3章第2節「M&Aを通じた経営資源の有効活用」では、買い手企業に対するアンケート調査として、「M&A実施後の譲渡対象企業の従業員の雇用継続状況」を公表しています。同調査によれば、買い手企業の8割超が「すべての従業員の雇用を継続している」と回答しています。一部の従業員のみを継続したとする回答は約1割、雇用を継続しなかった回答は1割未満にとどまります。
この数値は、「中小M&Aで雇用が失われやすい」という一般的なイメージと正反対の実態を示しています。むしろ、買い手は「雇われている人ごと事業を引き受ける」感覚で買収しているケースが圧倒的多数なのです。
1-2. 売り手経営者の82.7%が「雇用維持」を最重要条件にしている
同白書および中小企業庁「事業承継・M&A研究会」資料(令和6年6月公表)では、売り手経営者がM&A条件として重視する事項についても集計されています。「従業員の雇用維持」を重要条件として挙げた割合は82.7%と、買収価格や経営者個人の処遇よりも上位に位置付けられています。
つまり、売り手の経営者にとって雇用維持は譲れない条件であり、買い手にとっても継続雇用は事業継続のために必要——両者の利害がここで一致しているのが、中小M&Aの基本構造です。仲介者・財務アドバイザーが交渉を組み立てる際、雇用維持の確約を基本合意書(意向表明書)に明記することは、いまや標準的な実務になっています。
1-3. 「リストラされる」という誤解が生まれる三つの背景
それにもかかわらず、「M&A=リストラ」という連想が根強く残るのはなぜでしょうか。実務の現場で感じる主な背景は、以下の三つです。
第一に、上場企業の大型再編報道です。重複部門の統廃合、希望退職募集、組織改編といった上場企業特有の動きが、中小M&Aの実情と混同されて伝わっています。
第二に、外資系ファンドによる買収のイメージです。海外メディアで扱われるレバレッジド・バイアウトや事業再編ファンドの事例が、「ファンド=コストカット=人員削減」という連想を生んでいます。実際には、中小企業向けに活動するファンドの多くは、雇用維持と地域貢献を重要なIR情報として位置付けています。
第三に、経営者自身の心理的バイアスです。長年経営してきた会社を手放すこと自体への罪悪感が、「自分が手放したから従業員が苦労する」というシナリオを過剰に想像させる側面があります。実際の数値が示す通り、雇用維持は買い手にとっても合理的な選択であることを、まず冷静に認識することが重要です。
2. スキーム別・雇用承継の法的仕組み——株式譲渡・事業譲渡・会社分割の違い
2-1. 株式譲渡——労働契約は当然に承継される
株式譲渡(オーナー株主が保有する株式を買い手に譲渡する取引)の場合、譲渡対象は株式そのものであり、会社(法人)と従業員の間の労働契約には何の変更も生じません。株主が変わっても、雇用主は引き続き従前の会社のままです。給与・職位・勤務地・就業規則・退職金規程といった労働条件はそのまま継続されます。
仮に買い手が株式譲渡後に従業員を解雇しようとした場合、労働契約法第16条(解雇権濫用法理)が適用されます。同条は、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」と規定しており、M&Aの完了それ自体は解雇の合理的理由とはなりません。
下記スキーム別比較表(図1)の通り、株式譲渡は雇用承継の論点が最も少ないスキームであり、これも中小M&Aで株式譲渡が選ばれやすい理由の一つです。
2-2. 事業譲渡——民法第625条第1項により個別同意が必須
事業譲渡(事業の全部または一部を切り出して買い手に譲渡する取引)の場合、雇用関係の承継は民法第625条第1項の規律に服します。同条は、「使用者は、労働者の承諾を得なければ、その権利を第三者に譲り渡すことができない」と規定しており、対象労働者の個別同意なくして雇用契約を承継させることはできません。
この個別同意は、形式的な書面交付では足りず、実質的な説明と労働者の自由な意思に基づく承諾が要求されます。したがって、買い手・売り手が一方的に「○月○日付で転籍辞令を出す」と命じることはできません。労働者が承継に同意しなかった場合、その労働者は譲渡元(売り手会社)に残ることになります。
厚生労働省「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(平成28年8月17日告示・令和8年5月25日適用の最新改正版)では、事業譲渡を実施する事業主が労働者および労働組合との事前協議を行うべき事項、対象労働者への個別協議の進め方、承諾意思確認の手続き、承継対象から除外する場合の説明義務などが詳細に示されています。同指針は法令そのものではないものの、行政指導の実質的な基準となっており、実務では指針に沿った進め方が必須です。
事業譲渡を選択する場合、売り手側は「対象労働者全員の個別同意取得」というハードルを意識する必要があります。仮に主要な従業員の同意が得られない場合、事業譲渡そのものの価値が大きく毀損されるリスクがあります。具体的な労使協議の進め方や同意書面の整備については、社会保険労務士・弁護士にご相談ください。
2-3. 会社分割——労働契約承継法による独立規律
会社分割(吸収分割・新設分割)の場合は、民法第625条第1項とは別に、「会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律」(平成12年法律第103号、通称・労働契約承継法)が独立に適用されます。同法は2001年4月1日に施行され、会社分割に伴う労働契約の承継ルールを法定したものです。
主なポイントは以下の通りです。
- 事前通知義務:分割会社は、承継対象事業に主として従事する労働者および労働組合に対し、分割の効力発生日まで一定期間前までに、承継の有無・分割契約書の内容を書面で通知
- 異議申出制度:通知を受けた労働者のうち、承継対象事業に主として従事しているのに承継対象外とされた者、および主として従事していないのに承継対象とされた者は、異議を申し出ることができる
- 労働協約の承継:分割会社と労働組合との間の労働協約は、承継対象事業に係る部分について承継会社・新設会社に承継される
- 5条協議・7条措置:分割会社は労働者および労働組合との事前協議を行うべき義務(商法等改正法附則第5条、いわゆる「5条協議」)と、労働者の理解と協力を得るための措置(労働契約承継法第7条、いわゆる「7条措置」)が課される
会社分割では、株式譲渡や事業譲渡とは異なり、対象労働者の個別同意なしに労働契約が承継される点が特徴です(包括承継)。一方で、異議申出制度や5条協議・7条措置といった手続的保護が法定されています。これらの手続きを欠いた場合、最高裁判例(日本IBM事件、最高裁平成22年7月12日判決)により、労働契約の承継効が争われる可能性があります。
2-4. スキーム別比較表(図1)
| 論点 | 株式譲渡 | 事業譲渡 | 会社分割 |
|---|---|---|---|
| 承継方式 | 変動なし(株主交代のみ) | 特定承継 | 包括承継 |
| 適用法令 | 会社法・労働契約法 | 民法第625条第1項・厚生労働省指針 | 会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律 |
| 労働者の個別同意 | 不要(労働契約は当然存続) | 必須 | 原則不要(異議申出制度あり) |
| 解雇のハードル | 労働契約法第16条(解雇権濫用法理) | 承継拒否者は売り手会社に残留 | 手続違反は承継効を争う余地あり |
| 手続的保護 | 労使協議は努力義務 | 指針による事前協議・個別協議 | 5条協議・7条措置・異議申出 |
| 労働協約 | そのまま継続 | 承継には個別合意が必要 | 事業に関する部分が承継 |
3. 買い手の本音——「雇用を維持したい」の背景にあるビジネスロジック
3-1. 「人を買う」M&Aという基本構造
買い手企業がデューデリジェンス(事業精査)で何を見ているのか——財務諸表や契約書だけではありません。買収後に事業を運営し、想定通りのキャッシュフローを生み出すために必要な「人材・組織・ノウハウ・顧客関係」を、契約書の数字以上に詳細に評価しています。
とくに中小企業のM&Aでは、「会社を買う」というよりも「事業と人をセットで引き受ける」という感覚に近い案件が大半です。社長が長年磨いてきた取引先関係、ベテラン技術者の経験知、現場リーダーの統率力——これらは貸借対照表には現れませんが、買い手が支払う買収対価の大半は、こうした無形資産に向けられています。
キーマンとなる従業員が買収後すぐに離脱した場合、買い手の事業計画は根本から崩れます。買収価格の算定根拠が失われ、減損リスクが顕在化し、最悪の場合は買収自体が失敗に終わります。だからこそ買い手は、買収交渉の段階から雇用維持・処遇維持・キーマンへのインセンティブ設計を真剣に検討するのです。
3-2. 労働集約型産業——人材確保が事業継続の絶対条件
業種によっては、雇用維持の重要性はさらに高まります。とくに以下のような労働集約型産業では、人材は事業価値そのものです。
- 介護事業:介護保険法および介護保険指定基準により、サービスごとに法定人員配置基準が定められています。基準を満たさない場合、指定取消・報酬減算の対象となります。看護職員・介護職員・生活相談員・機能訓練指導員といった有資格者の確保が事業継続の絶対条件です。
- 運送事業(一般貨物自動車運送事業・旅客運送事業):道路運送法・貨物自動車運送事業法に基づく運行管理者・整備管理者・運転者の人員要件があります。第二種運転免許保有者・運行管理者資格者証保有者の確保は、参入障壁そのものです。
- 建設業:建設業法に基づく経営業務管理責任者・専任技術者の配置義務、特定建設業の監理技術者要件などがあり、有資格者の人材確保が許認可継続の前提です。
- 医療・薬局:医療法・薬剤師法に基づく医師・看護師・薬剤師の配置基準があり、人員確保なしには事業継続そのものが不可能です。
これらの業種で買い手が雇用を維持しようとするのは、慈善ではなく事業継続そのものへの投資です。むしろ、人員配置基準を満たすために処遇改善を伴う雇用維持を約束する買い手も少なくありません。
3-3. 「シナジー」と雇用維持は両立する
「買い手は当社とのシナジーを期待しているから、効率化のため一部人員は削減されるのでは?」——これも頻繁に聞かれる懸念です。確かに、上場企業の大型再編では重複部門の統廃合が話題になります。
しかし中小M&Aの実態は異なります。多くの中小企業の買い手は、自社にない地理的拠点・顧客基盤・技術領域を求めて買収しています。重複部門があったとしても、譲渡企業の規模が小さい以上、整理対象になるほどの重複が生じないケースが多数派です。むしろ、譲渡企業の人材を新たな事業展開に活用する方向で統合計画が組み立てられます。
シナジーと雇用維持は、中小M&Aにおいてはトレードオフではなく同じ方向を向くことの方が多いのです。
4. 例外ケース——M&A後に雇用が変動しうる場面と整理解雇4要件
4-1. 再生型M&A・事業再編型M&Aの場合
例外的に整理解雇が議論されるのは、以下のようなケースです。
- 再生型M&A:譲渡企業が経営危機に陥り、事業の再生・存続のために買い手企業の支援を仰ぐケース。私的整理・民事再生手続中の事業譲渡などが典型例です。
- 事業再編型M&A:譲渡企業の特定事業のみを買い手が取得し、他事業を切り出す・廃止するスキーム。事業切離しに伴い、対象外事業の従業員の処遇が論点になります。
- 余剰人員を抱えた譲渡企業:譲渡企業の事業規模に対して人員が過剰で、買い手の事業計画上、整理が避けられないケース。ただしこの場合でも、希望退職募集や配置転換が先に検討されるのが通常です。
これらのケースでも、買い手が一方的に解雇を強行できるわけではありません。日本の判例法理が確立している整理解雇4要件を満たさない解雇は、無効と判断されるリスクが極めて高いからです。
4-2. 整理解雇4要件——判例法理が要求するハードル(図2)
整理解雇とは、企業の経営上の都合による人員削減を目的とした解雇を指します。労働契約法第16条の解雇権濫用法理を具体化する形で、裁判例は以下の4要件(または4要素)を整理してきました。M&A後の人員削減を検討する場合も、この4要件のハードルを満たす必要があります。
4-3. 4要件は買い手の雇用維持インセンティブを構造的に支える
整理解雇4要件のハードルが高いということは、買い手から見れば「雇用を維持した方が法的リスクも経済リスクも低い」ことを意味します。仮に解雇を強行して労働審判・訴訟に発展した場合、和解金・解決金・弁護士費用といった直接コストに加え、レピュテーションリスク・他従業員への動揺による業務停滞リスクなど、経営上の波及コストが大きく膨らみます。
つまり、整理解雇4要件は、雇用される側だけでなく、買い手側の冷徹な経済計算にとっても「雇用維持を選んだ方が合理的」という判断を後押しする構造になっているのです。これも「買い手の8割超が雇用継続」という統計の背後にある、重要な制度的背景です。
4-4. アーンアウト条項・キーマン条項と雇用継続の連動
M&A契約書では、アーンアウト条項(買収後の業績達成度に応じて追加対価を支払う条項)やキーマン条項(特定の従業員の継続勤務を前提とする条項)が用いられることがあります。これらの条項は、買い手にとって雇用継続のインセンティブを強化する仕組みであり、売り手にとっても「雇用維持の確約」を実効的に担保する手段となります。
具体的な条項設計(条文の文言・退職時の取扱い・対価の計算方法など)は弁護士の専門領域となります。条項に基づく給与・退職金の取扱いは税務上の論点も伴いますので、税理士・公認会計士との連携も重要です。
4-5. 表明保証における雇用関連リスク
買い手は、デューデリジェンスで雇用関連のリスク(未払い残業代、労働基準監督署からの是正勧告、ハラスメント案件、労使紛争など)を精査します。譲渡対象企業に未開示のリスクがあった場合、表明保証違反として損害賠償請求の対象となる可能性があります。
売り手としては、買い手に開示すべき情報を整理し、必要に応じて補償条項・特別補償・買収価格調整で対応する必要があります。これも弁護士・社会保険労務士・税理士との連携が前提となる領域です。
5. 売り手が知るべき交渉・準備のポイント——中小M&Aガイドライン第3版(2024年8月)の活用
5-1. 中小M&Aガイドライン第3版(2024年8月)の位置付け
中小企業庁が公表する「中小M&Aガイドライン」は、中小企業の経営者および仲介者・財務アドバイザーが守るべき行動原則と実務指針を整理した、いわばM&A実務の基本書です。第3版は令和6年(2024年)8月30日に改訂されており、現時点で最新版となります(旧記事の「2023年9月改訂」記載は誤りで、正しくは2024年8月改訂です)。
第3版で強化された主な論点として、以下が挙げられます。
- 仲介者・財務アドバイザーによる依頼者への説明義務の明確化:最終契約締結前およびクロージング後に発生しうるリスク事項(従業員雇用条件の変動可能性、表明保証違反のリスクなど)について、依頼者に事前に明示的な説明を行う義務が明記されました。
- セカンドオピニオン取得の推奨:仲介者の利益相反リスクに対して、別の専門家からのセカンドオピニオン取得が推奨されています。
- 成功事例の普及:M&Aの心理的ハードル解消のため、雇用継続・賃上げにつながった成功事例の積極的な普及が示されています。
5-2. 交渉段階——基本合意書(意向表明書)への雇用維持条項の組み込み
買い手選定の段階では、複数の候補企業から意向表明書(基本合意書(LOI)、Letter of Intent)を取得し、買収価格・スキーム・スケジュールに加えて、雇用維持の方針を比較項目に組み込むことが望ましい実務です。意向表明書段階では法的拘束力のない条項であっても、後の最終契約交渉で大きな指標となります。
基本合意書では、より具体的な雇用維持条項を盛り込みます。たとえば以下のような項目です。
- クロージング時点の全従業員の雇用継続
- クロージング後一定期間(通常1〜3年)の処遇維持
- 就業規則・労働協約の包括的な維持
- 退職金規程の継続適用
- 特定キーマンへの継続勤務インセンティブ設計
具体的な条項設計は弁護士の専門領域です。交渉力は意向表明書段階から最終契約締結段階にかけて低下していく傾向があるため、意向表明書段階で雇用維持の主要論点を確定させておくことが、売り手にとっての交渉戦略上の鉄則です。
5-3. クロージング前後——従業員説明のタイミングと進め方
従業員への説明タイミングは、譲渡実務における最も難しい論点の一つです。早すぎる開示は情報漏洩リスク・主要取引先への動揺リスク・優秀人材の流出リスクを伴います。一方、遅すぎる開示は従業員の心理的反発・労使紛争を招きかねません。
一般的には、以下のステップが標準的な進め方とされています。
- クロージング当日またはその直前:取締役会・幹部社員への説明、社員総会または部門単位での全社員説明会の開催
- 説明会の出席者:売り手経営者・買い手経営者の両方が同席し、雇用維持・処遇維持の方針を直接説明
- 個別質疑への対応窓口:人事部門または専任の質問窓口を設置し、クロージング後一定期間にわたり個別の不安・疑問に対応
- 労働組合がある場合:事前に組合執行部への説明・協議を別途実施
事業譲渡の場合は、対象労働者からの個別同意取得手続きが必要となるため、説明会後に個別面談を経て同意書を取得するスケジュールを組みます。会社分割の場合は、労働契約承継法に基づく事前通知期間を逆算して、説明・通知のスケジュールを組み立てます。
5-4. クロージング後——中小PMIガイドラインに沿った人事統合
中小企業庁「中小PMIガイドライン」(令和4年3月公表)は、M&A成立後の統合プロセス(PMI、Post Merger Integration)における実務指針を整理しています。同ガイドラインは2024年4月に「PMI実践ツール」(ワークシート・アクションプラン・統合方針書)も公表しており、中小M&Aの実務で広く参照されています。
人事統合の観点で同ガイドラインが推奨している主なポイントは以下の通りです。
- クロージング後早期の全従業員ヒアリング:M&Aへの不安、希望、懸念、改善提案などを幅広く吸い上げる
- 従業員モチベーション低下リスクへの対応:M&A直後はモチベーション低下が起こりやすい時期であることを前提に、丁寧なフォローアップを実施
- 人事制度の段階的統合:給与体系・評価制度・退職金制度などを一気に統合せず、移行期間を設けて段階的に進める
- 処遇改善の検討:可能な範囲で待遇改善を実施することで、譲渡企業従業員のM&Aへの納得感を高める
具体的な人事制度設計や就業規則変更については、社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。就業規則の不利益変更を伴う場合は、労働契約法第10条の合理性要件を満たす必要があります。
5-5. 仲介者・財務アドバイザーの選定——セカンドオピニオン活用
中小M&Aガイドライン第3版が強調するように、売り手にとって仲介者・財務アドバイザーの選定は譲渡成功の鍵となります。仲介者は売り手・買い手双方から手数料を受け取る構造を持つため、利益相反リスクが内在しています。
このため、雇用維持や買収価格といった売り手にとって譲れない論点については、仲介者の説明をそのまま受け入れず、別の財務アドバイザー・弁護士・税理士からセカンドオピニオンを取得することが推奨されています。第三者の視点を入れることで、売り手単独では見えにくい論点・リスクが浮かび上がります。
株式会社 日本財務戦略センターでも、仲介契約とは別の立場からのセカンドオピニオン提供を承っております。中小M&Aガイドライン第3版の推奨する透明性確保の観点からも、ぜひ複数の専門家からの意見を比較検討されることをおすすめします。
6. FAQ——M&A後の従業員雇用に関するよくあるご質問
Q1. M&A後すぐに従業員が解雇されることはありますか?
株式譲渡の場合、株主が変わっても会社と従業員の労働契約はそのまま継続するため、解雇には別途、労働契約法第16条の客観的合理的理由が必要です。M&A完了それ自体は解雇の合理的理由とはなりません。事業譲渡の場合、買い手と労働者の間で新たな労働契約を結ぶ必要があり、買い手が一方的に転籍を命じることはできません。中小企業庁「2024年版中小企業白書」の調査では、買い手企業の8割超が全従業員の雇用を継続していると回答しており、M&A後すぐの解雇が一般的な実態ではないことが示されています。
Q2. 株式譲渡と事業譲渡で、従業員の取扱いはどう違いますか?
株式譲渡は、譲渡対象が株式そのものであるため、会社と従業員との労働契約は何の変更もなく継続します。一方、事業譲渡は、民法第625条第1項により、対象労働者の個別同意がなければ雇用関係を譲渡先に承継させることができません。労働者が同意しなかった場合、その労働者は譲渡元(売り手会社)に残ります。事業譲渡を選択する場合は、社会保険労務士・弁護士の助言のもと、対象従業員への説明・同意取得手続きを丁寧に進める必要があります。
Q3. 会社分割の場合、労働者は異議を申し出ることができますか?
会社分割では、「会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律」(平成12年法律第103号、通称・労働契約承継法)が適用され、分割会社は対象労働者および労働組合に対して事前通知を行う義務を負います。通知を受けた労働者のうち、承継対象事業に主として従事しているのに承継対象外とされた者、または主として従事していないのに承継対象とされた者は、書面で異議を申し出ることができます。異議申出があった場合、労働契約の承継・非承継の取扱いが調整されます。具体的な手続きは弁護士・社会保険労務士にご相談ください。
Q4. M&A後、給与・役職・勤務地などの待遇は変わる可能性がありますか?
株式譲渡の場合、就業規則・労働契約・労働協約はそのまま継続するため、原則として待遇は変わりません。買い手側で就業規則を変更する場合、労働者にとって不利益な変更は労働契約法第10条の合理性要件を満たす必要があり、労働組合または過半数代表者との協議が必要です。中小M&Aの実務では、買い手は譲渡企業従業員のモチベーション維持のため、移行期間を設けて段階的に統合を進めることが一般的です。むしろ、買い手のグループ全体での処遇水準に揃える形で、給与・福利厚生が改善されるケースもあります。
Q5. 売り手経営者として、買い手に雇用維持を確約させる方法はありますか?
意向表明書(LOI)の段階で雇用維持方針を比較項目として確認し、基本合意書に雇用維持条項を盛り込むことが基本的な流れです。具体的には、クロージング時点の全従業員雇用継続、クロージング後一定期間(通常1〜3年)の処遇維持、就業規則・労働協約の包括的な維持、退職金規程の継続適用といった条項です。買い手の交渉力が強い案件では、すべての条項が満額で受け入れられないこともあります。意向表明書段階で複数買い手を比較検討できる状況を作ることが、雇用維持確約を引き出す上で最も有効な交渉戦略です。具体的な条項設計は弁護士にご相談ください。
Q6. キーマンとなる従業員が譲渡後に退職した場合、買収価格や条件にはどう影響しますか?
M&A契約書にアーンアウト条項やキーマン条項が設定されている場合、対象キーマンの早期退職により追加対価の支払額が減額される、または対価の一部が買い手に返還されるといった条件が定められていることがあります。これらの条項は、買い手にとってキーマンの継続勤務を担保する仕組みであり、売り手にとっても買い手の事業計画破綻リスクへの対応となります。具体的な条項の文言・退職時の取扱い・対価の計算方法は弁護士の専門領域となり、関連する税務処理は税理士・公認会計士の助言が必要です。
結び——「雇用を守る」という売り手の願いは、買い手の経済合理性と一致する
本記事で繰り返し示してきた通り、M&A後の従業員雇用維持は、売り手経営者の願いであるだけでなく、買い手にとっても経済合理性に裏打ちされた選択です。中小企業庁「2024年版中小企業白書」の8割超という数値は、慈善や偶然の結果ではなく、人材・組織・顧客関係こそが買収価値の源泉であるという中小M&Aの基本構造を反映しています。
株式譲渡・事業譲渡・会社分割というスキーム選定の段階で、それぞれの法的構造を理解し、雇用維持の確実性を高める選択をすることは、売り手の責務でもあります。中小M&Aガイドライン第3版(令和6年8月改訂)が示すように、仲介者・財務アドバイザーの選定段階からセカンドオピニオンを併用し、雇用維持条項を意向表明書段階で確定させていくこと——この準備が、譲渡後の後悔を防ぎます。
株式会社 日本財務戦略センター(中小企業庁 M&A 支援機関 登録、一般社団法人 M&A 支援機関協会 正会員)では、中小企業のオーナー経営者の皆様の事業承継・M&A・事業譲渡について、売り手の利益最大化と従業員雇用維持を最優先するセカンドオピニオン的な立場でご相談を承っています。労働法務に関する個別判断は弁護士・社会保険労務士、税務処理は税理士・公認会計士、登記関連は司法書士・行政書士と連携し、最適な進め方をご一緒に検討します。
いつでもお気軽にご相談ください(初回相談無料・秘密厳守)。
よくあるご質問(FAQ)
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主な一次ソース・参考資料
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」令和6年8月
- 中小企業庁「2024年版中小企業白書」第2部第3章第2節
- 中小企業庁「中小PMIガイドライン」令和4年3月
- 厚生労働省「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(令和8年5月25日適用版)
- 厚生労働省「会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律(労働契約承継法)の概要」
- 労働契約法(e-Gov法令検索)第16条 解雇
- 厚生労働省「労働契約の終了に関するルール」
- 経済産業省プレスリリース「中小M&Aガイドライン(第3版)の改訂」(2024年8月30日)
守秘義務と免責事項
本記事は、公表されている一次ソース(中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」令和6年8月、「2024年版中小企業白書」、「中小PMIガイドライン」令和4年3月、厚生労働省「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」令和8年5月25日適用版、「会社分割に伴う労働契約の承継等に関する法律」、労働契約法、整理解雇に関する確立判例ほか)に基づき、株式会社 日本財務戦略センター(中小企業庁 M&A 支援機関 登録、一般社団法人 M&A 支援機関協会 正会員)が独自の視点で構成・整理した解説記事です。記載内容は記事公開時点(2026年4月)のものです。
労働契約の承継・解雇の有効性・労使協議の進め方・就業規則の変更といった個別の労務判断、雇用維持条項・キーマン条項・アーンアウト条項といった具体的な契約条項の設計、税務処理・会計処理・登記手続きに関する個別判断については、必ず弁護士・税理士・公認会計士・社会保険労務士・司法書士・行政書士等の各専門家にご相談ください。本稿はあくまで、法令・行政指針・公表統計・裁判例に基づく一般的な解説を目的としており、個別案件における法的助言・税務助言・労務助言を構成するものではありません。
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📅 本記事の情報基準日
本記事は 2023年4月5日 公開時点の情報に基づきます。税制・法令等は改正される場合があるため、最新の制度・税制は公的機関の公式情報をご確認ください。
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